神戸市室内管弦楽団への市からの補助金打ち切りニュースを聞いて想うこと
先月、神戸市は2027年度をもって室内オケへの補助金を打ち切る方針というニュースが駆け巡りました。そして、同団体の音楽監督の鈴木秀美さんの会見が昨日開かれ、神戸市民に質の高い音楽を提供し続けたいとおっしゃって、存続を訴えたというニュースが今日報じられました。
市が問題視したのは、楽団の集客力の低さ。集客力はいつも、文化芸術活動の価値を計る物差しと考えられます。「集客力」は、販売実績と言い換えることもできるでしょう。これは、多くの人がお金を払うものにこそ価値があり、そうでないものには価値がない、という考えに基づいています。
神戸の室内オケのニュースが報じられた直後に、2023年10月末に老朽化のために閉場して以来、建て替え工事が手づかずのままになっている国立劇場についてのニュースも報じられました。再開場は当初は29年に予定されていましたが、建築資材の高騰などの理由で建て替え工事の入札が2度不調に終わり、33年度の再会場を目指しているとのこと。3度目の入札が公告されたそうです。
もう2年半、閉場したままになっても、関係者や国民のなかのごく一部に過ぎないファンしか困っていないのだから、このまま再開場しなくてもいいじゃん!という声や、チケット売れないオーケストラは潰れちゃってもいいじゃん!と考える方もとても多いのでしょう。
そうそう、そう言えば、文化庁が、国立の博物館や美術館に対して、自己収入(入館料やグッズ販売利益)を増やすように数値目標を定めた、というニュースも確か3月初旬に報道されました。企画展などで自己収入額が40%を下回り、「社会的に求められる役割を十分に果たせていない」と判断した場合、「再編」の対象になるとか。。。
最悪の場合、オケが溢れる東京都のような環境ではない一地方からプロオケが姿を消し、国立劇場はずっと閉館、国立美術館や国立博物館はしょぼくなる。はぁ?なんと見事な政策なんでしょう。日本、輝きそうですね(もちろん嫌味で言っています)。
その昔(2009年末)、民主党の鳩山政権下「事業仕分け」というものが行われて、その時に文化予算が削減されたことを思い出しました。当時、著名な音楽家たちが会見を開いて反対意見を述べたのですが、その時にピアニストの中村紘子さんが言った言葉が忘れられません。「芸術はお金がかかるんです!」。実は、中村紘子さんがこう言い放ったことに、わたしはちょっとギョッとしてしまったのです。その説明でみなさん、納得してくれるのだろうか・・・と。一般人の感覚とあまりにもかけ離れていて、そんなことを言ったら、かえって逆効果なのではないかと。
その後もずっと音楽家を続けて、今振り返ってみると、中村紘子さんが言ったことは正しかったと思うようになりました。お金をかけないで、人を感動させるようなステージ、展示なんて、絶対にできません。そもそもお金以上に時間(時間というと語弊があるかもしれませんが、ステージを成功させるために費やす熱量とでも言いましょうか)がかかっています。時間をかけないで(つまり音楽なら、ちょっとしか練習しない、リハーサルも最低限で、ということになる)、人を感動させることなんて絶対に無理。これは、例えば国際的に活躍する音楽家や美術家など、上のレベルの仕事をしている人ほど、強く思っていることです。例えばピアノの天才はいとも容易く演奏しているように見えます。でも、世間で天才と思われている人ほど、毎回の本番にかける熱量は大きいのです。人生の全てをかけているでしょう。「時は金なり」と申しますが、そうやって費やした時間・熱量をどうやったらお金に換算することができるでしょうか。また、人を感動させられるステージを作れるような演奏を披露するには、その準備ができる環境があることが必須です。要は、毎日の練習のための時間や場所を確保できる、ということです。片手間に練習するのでは、プロと言えるようなステージはできません。そう考えると、やはり中村紘子さんがおっしゃった通り、「芸術はお金がかかるんです!」
でも、例えば自分が会社の社長だったとして、こうした論理が通用するかと言うと、きっとそうではない。いくら人生かけたって、血の滲むような努力をしたって、買ってもらえないものは人に必要とされていない、もし販売利益以外の効果があるのだとしたら数値をはっきりさせろ、というのが経営者の論理だと思います。
ここでひとつ見えてきたことがあります。つまりは、こうした経営者の論理(市場原理と換言できるでしょう)で、国政や地方行政の方向が決められているということです。これに対しては、わたしは異論を唱えます。
太平洋を挟んだ向こう側の大きな国の大統領が、しっちゃかめっちゃかやっていますが、この方も「儲かれば何でもいい」「自分が得すれば何をしてもいい」というような発想ですね。極端な例ではありますが、その先にあまり良い世界が待っているようには見えません。
文化庁が行っている事業には、子どもたちに文化芸術体験の機会を与えることを目的としたものがあります。でも本当は、文化芸術の体験の機会が欲しいのは、子どもだけではないのですよね。大人だって、そうした機会があったらいいなと思っている方、沢山いらっしゃると思うのです。日本が成熟した社会になかなか変わっていかないのは、目先のことばかりで判断してしまう傾向が強いからかもしれません。
政治は、会社経営よりもっと大きなヴィジョンが必要でしょう。人々の暮らしを実質的に豊かにするだけでなく、精神的にも豊かにしていくことが、政治の目的であって欲しいと思います。でもここで敢えて、国を大きな会社と仮定してみるならば、福利厚生がなっていない会社は、社員にとって魅力がありません。お金を稼ぐための労働の場でしかないでしょう。
ここ最近、街を歩くと、みんな労働者に見えてしまいます。公園で楽しそうに過ごしている人を見ても、労働の合間の休憩時間を過ごしているかのように、私の目に映ることがあります。こうしたことが何かを象徴しているかのように思うのは、私だけでしょうか。
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最後に、件の神戸市室内管弦楽団の名演をひとつご紹介したいと思います。
大澤壽人作曲《ベネディクトゥス幻想曲》(1944)。山田和樹指揮・神戸市混声合唱団。2023年5月19日神戸文化ホールでの演奏会。
大澤壽人(おおさわひさと 1906-53)は当初独学で作曲した。日本には作曲を専門に学べる学校がなかったために、ボストンに留学して作曲を正式に学び、そのあとパリでもエコールノルマル音楽院に通い、名教師ナディア・ブーランジェの個人レッスンを受けた。ボストンでもパリでも、大成功を収めている。ところが帰国したのは二二六事件の直前、太平洋戦争に突入する時代が近づいていた。そもそもクラシック音楽は国民のごく一部でしかない、ハイソサエティやインテリの「娯楽」であった上に、西欧の最新の作曲技法が用いられた大澤の音楽は、斬新過ぎて人々に求められなかった。
《ベネディクトゥス幻想曲》は、1944年5月に完成された。オーケストラと、ヴァイオリン独奏、合唱という非常に珍しい編成で、演奏には30分弱かかる。この時期の日本では、同盟国のドイツやイタリア以外の洋楽は「敵性音楽」として禁止されていたが、そもそもオーケストラの演奏会など、口にすることも憚られただろう。上演される当てなど全くないこの曲を、大澤はどのような気持ちで作曲していたのだろうか。